草団子と『金剛経』
板東洋介
中国唐代の僧、徳山宣鑑は若いころ大乗の般若経典のひとつ、『金剛般若経』を深く研究し、その第一人者として世に通っていた。ある時彼は、彼みたいに経典とその注とその注の注とに長年埋もれる必要もなく、この身この心でたちまち成仏できると説く新しい宗派、つまり禅宗が南方で流行っていると聞きつけて、ご自慢の『金剛経』と無数のその注釈類とを担いで、南をさしていそいそと出かけていった。もちろんこの天竺渡来の祖師に発する神秘な教えに虚心に学ぶためではなく、論破するためである。哲学青年の鼻息の荒さといったら、いつの世もまあこんなものだろう。
けれどもその途次、さすがに背にした経注の重さにくたびれきって喘いでいたところ、折よく道端で一人の老婆が餅を売っているのが目にとまった。路端の餅売りというものを現代日本の私たちは想像しにくいが、たぶん夜勤明けにかぶりつく肉まんのように、その餅はいかにもうまそうに見えたのだろう。
たまらず餅を求めたところ、老婆はこんなふうにいった。
「あんたが大事にしている『金剛経』には「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」とある。過去・現在・未来のどの心も捉えられないのなら、あんたはどんな心でこの餅を食いなさるのかね?」
徳山は言葉につまってしまい、恬然として自分の未熟を悟った。『五灯会元』巻七ではこれでこの話はおしまいだが、道元は『正法眼蔵』の「心不可得」巻で「つひにもちひを徳山にうらず」と付け加えている。徳山は餅を食いそこねたわけである。古来この話のミソは「心」なのだが、そこで餅のほうを気にするのが道元らしい。
けれどもまた、私はある禅堂での提唱(講義)の際、徳山はその場で、後生大事に背負ってきた経注をみんな燃やしてしまったのだ、とも伺ったことがある。あるいは、ひょっとしたらその火で餅を焼いたのかもしれない。だとしたらその味にはこたえられない晴れやかなものがあっただろう。二限に寝坊して、自分の前には何もしなくてよい、何もできない一時間と数十分の午前中がひろがっているときの、あの虚脱した晴れやかさ。…
禅宗に帰依した後の徳山は「道(い)ひ得るも也(ま)た三十棒、道ひ得ぬも也た三十棒」、つまり弟子がどんな賢しらなことを言おうが間の抜けたことを言おうが、まずはとりあえず棒(警策)で三十発ずつ殴りつける、猛烈なーしかし見方によってはどこかとぼけた、禅風で知られた。
以上はブッキッシュな理論や経典に依拠せず、自らのこの心身に仏法を受けとめることをモットーとする禅宗の思想的立場を端的に示したものとして有名な逸話、「徳山三世心不可得」である。教員エッセイという性格のため、資料をあれこれ参酌した正確な説明にはなっておらず、私自身がむかしある禅堂での提唱で伺ったところ、またそれをもとに私自身が勝手に想像したところも多いことをお断りしておく。
おびただしい注釈と議論とが蓄積された権威ある古典と、今私が口にほおばる餅ないし団子と、一体どっちが重いか。これはひとり禅宗のみに関わる問題ではなく、東洋の思想全般が共有する、思想上の勘どころをなしているといってよい。
そしてもちろん、団子のほうが重いに決まっているのだ。
定職が決まらず寄るべなかったある年の暮れの夕方、非常勤先からとぼりとぼりと柴又の帝釈天へと歩いていったことがあった。鋭い音を立てて高いところから吹きおろす冬の風が素通しに吹きこむようで、腹の底から震えが来た。「素寒貧」というのは実によくできた言葉だ。帝釈天の門前まで来て、つぶあんがたっぷりのった名物の草団子を食べた。その時の草団子は、何というか、拝みたいほどに有り難かった。香ばしく温かいほうじ茶で冷え切った心身がぬくもりを取り戻した後に、たっぷりした量感を湛えた団子とあんとがゆっくりと喉もとを過ぎてゆき、空っぽだった腹の底に確かな熱量が宿ってゆくのが感じられた。折しも外では冬の夕暮れの最後の光がもえたち、帝釈天の山門から続く門前町の屋根屋根の輪郭が影絵のように浮き立っていたのが、妙に記憶に残っている。それからほどなくして、最初の定職が決まった。
今でもなお、高踏な哲学的議論について読んだり書いたり話したりしている時、ふと気がつくと、あの時の団子のあの感じは、いったいこの話のどこに位置づくのだろう? などとぼんやり考えている自分を見出すことがある。
私たちがそのために生きたり死んだりする、私たちの生の一等大切なところは、命題化したり吟味したり影響関係を精査したり追証したり査読したりする、公共的・近代的な知の営みとは本質的に相容れないのではないか。私たちはありがたいお経の権威ある注釈にこうあるから、あるいは幾度も検証を経た哲学上の命題にあああるから、生きたり死んだりするのではなく、あの時のあの草団子のたっぷりした重みのために、あるいはあの時のあの人の手のひらの汗ばんだ温かさのために、生きたり死んだりするのではなかろうか。
禅宗にかぎらず、19世紀以降「西洋」が視圏に入ると「東洋」としてくくり直された地域の伝統思想、つまり仏教や儒教は一般に、こうした消息にきわめて敏感であったと思われる。「義」とは何か。『論語』や『書経』でこの概念がどんな風に使われているか、あるいは時代時代にどのようにこの語が注解されているかを調べ上げることではない。誰もが押し黙った暴君の宮廷で、ぬめりつくような重苦しい空気に抗って、死の恐怖と高揚感とにわくわくと震えながら諫言の口を開く、その時のその感じ以外に「義」などない。その感じに後代の人が与えた「義」という言葉と、それについての論争史とを詮索することは、ほんとうの意味で「義」を知ることとは全然別のことだ。これは何も陽明学の有名な「知行合一」を待つまでもなく、およそ儒者とよばれた人全員がごく当たり前の前提にしていたはずのことがらである。
粗雑なステレオタイプ化になってしまうが、政治家や悲劇作家や職人がそれぞれにもっている「勘」めいた知を否定し、対話の中で吟味できる知を求めたソクラテスにはじまる「西洋」の哲学の伝統と対比したとき、「東洋」の思想のほうは「行」(修行、修為)の世界という形で、やればわかる、やらない限りはわからない、私にとっての「あの」感じの世界を執拗に確保し続けようとしたといえそうである。それが西洋哲学史がもつすっきりした見通しのよさに欠けた、東洋思想の本質的なうさん臭さにつながっているのだろう。けれどもそのうさん臭さは、私たち一人一人の生のうさん臭さと根っこのほうでつながっていると、私には思われてならない。経典より団子が重いに決まっているのだ。