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学問をするということ

学問をするということ

 コロナ禍の2021年9月末、新学期の開始直前で少し気の重い時節、授業が休みの間、緊急事態宣言による自粛で山の空気を吸いに行くこともなく、私の夏は終わろうとしております。病気、死という根源的な問題からコロナの影響を大きく受ける人たちとそうではない人たちの格差、政治と科学の関係など、様々なことに思いを巡らせながら、息災でいられることのありがたさも感じます。こういう時には健康な若い人でも少し思慮深くなって、何かを考えようとするのかもしれません。だからと言って哲学を志すとは限りませんが。『ここは今から倫理です』(雨瀬シオリ)というコミックがあり、N H Kでもドラマ化されました。「ここ」では倫理の授業で教師が与える哲学の言葉が生徒に一筋の光を与えます。光はそこへ向かっていく道標となるほかにも周りを照らし、ものを見えるようにしてくれます。考えるきっかけを与えてくれるのです。若い人たちに本を読んでもらえない出版社の人たちは、このドラマにヒントを得て、本作りの参考にしようとしたりしています。ちょっと安易かもしれません。さて、それでは哲学や倫理思想に興味をもったとしましょう。それを学問として研究しようとしたらどうなるでしょうか?
 私は「インド学仏教学」(「インド哲学」「チベット学」なども含む)という研究分野の研究者です。「インド哲学」を略して通称「イン哲」とも言われますが、この言葉には微妙なニュアンスがありまして、「ここは今からイン哲です」なんて言いますと「お先真っ暗」をイメージしてしまいます。扉を開けたら闇、です——みなさん、本当の暗闇をご覧になったことがありますか?人工的な明かりのない自然の闇です。木立があっても「一面黒」にしか見えません。車のバックミラーにもサイドミラーにも何も映らない、光がないと鏡には何も映らないのです、そんな暗闇——。「お先真っ暗」には「将来真っ暗」も含意しますが、実際は「将来真っ暗」ではありません。現に自分もこうして大学に勤務しております。ただ、道が凸凹で曲がっていたりはします。「イン哲」は訳がわからない、怪しい、変な奴しかいないんじゃないか—ちょっと当たっているかもしれませんが、これも必ずしもそうではありません。世界に通用する伝統的な学問です。でも、「イン哲」であろうと何であろうと哲学を研究しようと思って扉を開けたら、何も見えない、どうしていいかわからない、最初はそういうことはあるのだろうと思います。
 さて扉を開けて闇だったらどうするか?自分で光をもってそこへ入ることです。光は、知識、語学力など、情熱もありでしょうか。経験も積めば、どんどん光は明るくなるでしょう。そして周りが見えるようになれば、仲間がいることに気づくでしょう。私は2世紀くらいから15世紀くらいまでの幅広い時代にインドやチベットで書かれた仏教の論書を研究対象としています。それを読むためにインドの古典語であるサンスクリット語やチベット語などを学び、インドやチベットの歴史を学び、仏教の基礎を学び、その知識の光で時空を超えた過去の人類の知的遺産である文献を読み、それらの関係や著者の関係を考えて、見えない思想史を見えるようにしようと研究してきました。千年も二千年も前の異文化圏の人たちが何を考えていたのか、そこに光を当てる、そういう仕事です。そんな古いもの知ってどうするの?今と関係ないじゃないか、と思うかもしれません。でも、人間というのは過去の死んだ人たちとも共感できる類稀な動物です。最初は文字の羅列に過ぎなかった古びたテキストが、こちらが光をあてることで意味のある言葉となり、人の思考となり、行間にその姿すら垣間見せてくれるようになります。どんな顔だったかもわからない、遠いところの過去の人間が、生きた人のように見えることがあります。それはこちらの思いを投影した姿であるかもしれない、しかし、そうであれば逆に読み手である自分を知る鏡ともなるでしょう。学問とは未知との遭遇であり、知られていないものを自ら照らす作業です。
 と格好いいことを書きましたが、扉を開けた時に闇ではない方がいいですよね。『ここは今から倫理です』の高柳先生のようにちょっと暗くても親身になってくれる先生がいてくれるといいですよね。この哲学・思想サブプログラムのウェッブサイトはとても明るい青空の扉です。頼りになる教員や仲間もおります。みんなどちらかというと明るいです。入ってみた先が闇に見えても、きっと皆さんが光を持てるように助けてくれることでしょう。

2021年9月26日 吉水千鶴子 記